島医者の離島日記 〜"あの先生"であったこと〜

島医者の経験をもとに都市部の医療と比較

〜第1章〜 2020.6 -最期まで南大東に居たい- その2

前回は、南大東島に赴任後、初めてのお看取りをすることになったおばぁについて話をしました。今回はその続編です。※個人情報保護の観点から症例の詳細は改変してあります。

長男と面会を果たせた翌日。外来診療が終わった後の夕方、往診を行いました。おばぁは水分をほとんど取れていませんでしたが、前日より少し楽になっていそうでした。抗生剤を投与し、連日で往診を行って、肺炎の治療が落ち着いたら、おばぁの自宅へ移動する予定としました。私も離島で初めての終末期の患者を抱え、心配で胸がいっぱいでしたが、その日は心を落ち着かせて床に就きました。

午前4時、医師携帯が鳴りました。

「先生、お母さんが呼吸してないみたい。すぐにきて下さい。。。」

パニック気味になっている次男からの電話を受け、看護師に連絡をし、次男宅へ向かいました。自宅へ到着すると、次男はおばぁの横で佇んでおり、診察をするとおばぁは脈も呼吸もありませんでした。

答えのない選択

私はここで葛藤と闘いました。このまま次男宅でお看取りをすることがいいのか、それとも、今からでも移動して長男と共におばぁ本人の自宅でお看取りをすることがいいのか。正解がわかりませんでした。そんなことを考えていると、午前4時にも関わらず、島中から親戚が集まってきて、患者を取り囲む人数が20-30人に達していました。しかし、ここで死亡確認をしてしまったら、おばぁや家族の願いを叶えられないと思い、次男へ提案をしました。

菊池「まだ最期の診察をしていないのでお母さんの自宅に移動して診察をしませんか?」

次男「そうだね、そうしよう。みんな手伝って!・・・」

集まっている親戚達に事情を説明し、男性陣におばぁを布団ごと車に運んでもらい、車で15分くらい離れたおばぁの自宅へ向かいました。

その自宅では長男が待っており、おばぁが長年愛用していたベッドに横になってもらいました。そして、長男にはベッドの側の"いつもの場所"に座ってもらい、最期の診察を行いました。対光反射/心音/呼吸を認めず、5時38分に死亡を確認しました。

最期の診察を終え、戻ってきた診療所

家族と親戚が泣きながらおばぁを囲んでいる中、次男は端で茫然と立ち尽くしていました。私は次男に掛ける言葉が見つからず、隣で一緒におばぁをみつめていました。その後、診療所に戻り、死亡診断書を作成して自宅へ届けました。後日、お葬式に伺った際に次男より「今回は本当にありがとうございました。母も自分の家でみんなに囲まれて最期を迎えられてよかったと思います。」とお言葉を頂きました。

考え抜いて出した結論

全ての経験が初めてで、医師1人看護師1人の訪問診療、島の有志の方との連携をして行う終末期医療、亡くなっている状態の患者を移動させていいのか、さまざまなことでとても悩みました。しかし、以前から患者、家族の想いを聞いており、何がなんでもそれを叶えてあげたいという気持ちに従い、今回のお看取りをしました。この行動が正しいのか、間違っていたのかはわかりません。ただ、その人の人生を考え、家族の気持ちを考え、出した結論は間違ってはいなかったのかと思います。※個人情報保護の観点から症例の詳細は改変してあります。

今回は2回に渡り、島に赴任して初めての終末期医療のお話をしました。島での終末期医療の話をしたので、次回は離島で患者が亡くなった後、どのような経過を辿っていくかについて話していきたいと思います。

 

 

 

〜第1章〜 2020.6 -最期まで南大東に居たい- その1

前回は離島の生活におけるネットショッピングについて話をさせていただきました。今回は、赴任して初めて、最期までお看取りをさせていただいた方について、話をしていきたいと思います。※個人情報保護の観点から症例の詳細は改変してあります。

101歳女性(以下、おばぁ)が家族に連れられ、診療所へやってきました。下痢があってご飯が食べれなくなっていましたが、腸炎として補液をしながら様子をみることとしました。2日経っても症状の改善がなく、状態が悪くなってきたため、入院も含め、今後どうしていくかの相談をしました。おばぁはぐったりしており、話ができる状態ではなかったため、同居している次男と話をしました。次男によると「お母さんは『最期は南大東島に居たい。本島に行かないでここで死にたい。』と明確な意思がありました。」と話しており、南大東島で最期の時間を過ごしてもらうこととしました。おばぁは数ヶ月前からADL(Activities of Daily Living:トイレ、風呂などの日常動作)が低下しており、自分の家ではなく、次男宅で過ごしていました。

離島での終末期医療

南大東島で終末期医療を行うとき、離島には訪問看護ステーションやヘルパーなどのシステムがないため、村の有志(社協職員、保健師など)の方々の協力が必要となります。有志の方と相談し、おばぁの最期をどうサポートしていくかの話し合いを次男も含め行いました。ここ最近、仕切りに「自分の家に帰りたい」と話していたこと、体調が悪いにも関わらず、ずっと「○○(長男)はご飯食べたか?」と長男のことを気にかけていることを知りました。長男は長年の糖尿病により足が壊死(糖尿病の合併症)し、入院しており、その時は島にいませんでした。次男の希望としては、長男が島に帰ってきて、長男が帰ってきた家(おばぁの家)に連れて帰ることでした。その想いを受け、まずは状態が安定するまで訪問診療を週2回の予定で行い、安定したらおばぁの自宅へ移動することとしました。

南大東の"猫" 

家族の準備不足

長男は入院中に左下肢を切断することとなり、リハビリテーションをしている途中でした。しかし、母(おばぁ)の状態が悪いことを知り、島での長男の介護体制が不十分であるにも関わらず、退院を決定し、1週間後に帰島予定となりました。おばぁのお看取りをするだけでも根気のいることですが、リハビリがまだ完全でない長男も帰ってくることに、家族も私自身もかなりの不安を抱いていました。

長男が帰島する予定だった日の夕方、次男よりおばぁが発熱していると連絡があり、臨時往診を行いました。診察の結果、肺炎になっており、抗生剤の治療を開始しました。検査を終え、抗生剤を投与している最中に長男が到着し、体をなんとか家族に支えられながらおばぁのもとへとやってきました。おばぁは発熱で意識が朦朧としており、目をきちんと開けることができませんでしたが、長男と面会することができました。

 

今回は、南大東島に赴任後、初めてのお看取りをすることになったおばぁの前編について話をしました。ずっと心待ちにしていた長男と再会し、その後、どのように最後を迎えたのか。次回、後編を話していきたいと思います。※個人情報保護の観点から症例の詳細は改変してあります。

 

〜第1章〜 2020.6 -離島のネットショッピング-

前回までは、心肺蘇生後搬送できずに一晩を乗り切った事例について話しました。今回は離島でのネットショッピングに関してをお話ししたいと思います。

以前の記事(〜第1章〜 2020.3 -島民になるということ- - 島医者の離島日記 〜"あの先生"であったこと〜)でもお話ししましたが、離島では食料をはじめ、荷物の輸送は基本的に船によって行われています。

天候によって運命が変わる

南大東島でもAmazonを使ってネットショッピングはできますが、注文をしてから配達されるまでの時間が予測できません。搬送だけでなく、ネットショッピングも天候によって運命が変わります。赴任当初、テレビを購入するのは生活が落ち着いてからで良いと考え、テレビを見ない生活をしていました。しかし、テレビがないと情報が中々入らず、特に新型コロナの情報は常に意識しなければならないため、テレビを購入することとしました。

5月中旬にAmazonでテレビを注文しましたが、注文した時には1週間程で到着する予定となっていました。しかし、天候不良などで週1回来るはずの船が来れなくなり、結局、注文から3週間後に届きました。

待ちに待って届いたテレビ

ちなみに、現在住んでいる東京で同じテレビを注文すると2日後には届くようです。笑

また、節税のためにふるさと納税に挑戦しようと、Youtubeを見て仕組みを勉強し、お礼品を探し始めました。しかし、ふるさと納税でも離島ということが影響し、「離島対象外」といものが多く、"お礼品"選びに苦戦しました。

離島でしか味わえない"お礼品"

ふるさと納税のサイトで人気ランキング上位に位置している"お礼品"は軒並み「離島対象外」となっており、欲しいものが選べないもどかしさを感じていました。しかし、離島ではおじぃ、おばぁからの"お礼品"が届きます。これらは突如としてやってきます。この日も夜に突然インターホンがなり、出てみるとおばぁが煮豚と島らっきょを食べなさいと一人分とは思えない量を持ってきてくれました。

ふるさと納税では、離島は対象外ですが、そこでしか味わえない"お礼品"で元気づけられながら、島医者生活を送るのでした。

おばぁのラフティと島らっきょ

また、プライベートでは、ある作戦を計画し、婚約者(現 妻)との入籍をすすめるべく、証人として両親の署名をもらうために婚姻届のリレーが始まりました。婚約者が住んでいる福岡→婚約者の実家(神奈川)→私の実家(東京)→南大東へと長い旅路となり、無事に戻ってくることを祈っていました。

離島では流通の不便さがあるものの、離島でしか味わえない"お礼品"の温かみを感じました。物がすぐに届かないことで、そのものの価値を改めて感じ、身近なところには、実はもっと大切なものがあるということを再認識しました。

次回は、離島に赴任して初めての終末期の患者を対応することとなりました。離島ならではの終末期について話していきたいと思います。

 

 

〜第1章〜 2020.5 -島医者は甘くない- その2

前回は心肺停止した女性の蘇生に成功したものの、再度天候不良のため自衛隊が迎えに来れない時の話をしました。果たして迎えが無事に来れたのか、その続きの話をしたいと思います。※個人情報の観点から症例の詳細は改良してあります。

19時、搬送担当医師より連絡が入りました。

搬送医師「今から久米島へ搬送に向かうのでしばらく連絡がとれなくなります。よろしくお願いします。」

菊池「こちらが優先ではなかったのですか。」

搬送医師「自衛隊の判断なのですみません。」

菊池「・・・わかりました。」

一瞬、唖然となり、怒りが湧いてきましたが、2日前の出来事があったため、『離島はこういうところだ。』とすぐに納得をすることができました。とにかく、この若者の命を繋がなければならないと考え、マスク換気を続けました。

21時、最後の検査キットを使用し、呼吸状態を確認するとpH 7.351, CO2 40.8mmHg (ほぼ正常値に戻っている)と改善が見られたため、ひとまず、ホッとしました。しかし、再度、自衛隊に連絡すると明日の朝まで自衛隊が迎えにこれる見込みがないことがわかりました。

幸い、状態は安定しており、現在の治療を続けていくこととしました。しかし、診療所には人工呼吸器がないため、朝まで人の手でマスク換気をしなければなりませんでした。翌日も診療があるため、それを考えると休憩も取らないと行けませんでした。看護師と相談し、消防団に状況を説明し、マスク換気のやり方を教え、手伝ってもらうことにしました。私と看護師は交互に少しだけ仮眠をとり、朝までなんとかやり過ごすこととしました。

翌朝6時20分、自衛隊から連絡が入り、7時35分に自衛隊が南大東空港へ到着するとのことで準備を行い、南大東空港へ向かいました。

那覇と南大東の間の天候が悪く、少し時間がかかりましたが、8時に自衛隊が到着し、搬送医師へ引き継ぐことができました。

迎えにきてくれた自衛隊飛行機 前回と景色が似ています。

8時30分に放心状態の中診療所へ戻り、9時から通常診療を開始しました。その日は島民も気を使ってくれたのか、外来人数も少なく、なんとか乗り切ることができました。

その夜はたらふく夕飯を食べ、爆睡しました。

ふるさと納税で届いたカレーを爆食い

後日、その女性は無事に病院へ着き、ICU(集中治療室)へ入り、治療を継続したと聞きました。

※個人情報の観点から症例の詳細は改良してあります。

以上、2回に渡り、心肺蘇生後に搬送できなかった経験を書きました。まるで島に『お前はこの島でやっていけるのか?』と試されているようでした。しかし、2回連続で同じような事例が続き、離島はこういうところなんだ。と納得できる自分もいて、少しずつ環境に順応してきている感覚もありました。次回は話題を変えて普段の生活について書きます。

 

 

 

 

〜第1章〜 2020.5 -島医者は甘くない- その1

前回は離島と都市部の救急搬送の違いについてを話しました。今回は、前回のケース(〜第1章〜 2020.5 -離島の洗礼- その1 - 島医者の離島日記 〜"あの先生"であったこと〜を参照)の2日後にあった出来事について話をしていきたいと思います。※個人情報の観点から症例の詳細は改良してあります。

前回の搬送を済ませ、通常業務に戻りました。疲れはまだ取れず、なんとか今週を乗り切ろうと思っていました。

診療もそろそろ終ろうとしていた夕方。

車が診療所の前に止まり、男性が駆け込んできました。知人が急に意識を失って、全く反応がないとのことでした。急いで車に見に行くと、後部座席に女性が横たわっており、顔面蒼白で脈を触れると心停止していることがわかりました。すぐにみんなで診療所に運び、心肺蘇生を開始しました。診療所のマンパワーでは人手が足りないため、事務員に役場に連絡をしてもらい、消防団を招集してもらいました。

胸骨圧迫をしながら、看護師と消防団に指示を出し、除細動器を貼ってもらい、2回程電気ショックと強心薬を投与したとろで心拍が再開しました。

患者に呼びかけましたが、反応がなく、意識障害が遷延していたため気管挿管をすることにしました。これまでに気管挿管は何度もやっていましたが、医師1人という環境では初めてで、僕も気が動転していたため、何度も深呼吸をして気を落ち着かせました。1回目の挿管で成功し、搬送の準備を始めました。ところが、自衛隊へ緊急搬送依頼をすると、天候不良のため今すぐには自衛隊が迎えにいくことができないとのことでした。

蘇生から搬送までに使用した薬剤の量

その後、搬送担当の医師につながりました。現在、久米島でも急患が発生しているが、那覇周囲の天候が悪く、待機中である。重症度から考えると、こちら(南大東)を優先するため、それまでなんとか頑張るようにと返事をもらいました。

患者の状態を把握するために採血(血液ガス)をするとpH 7.145, PaCO2(血中二酸化炭素) 70mmHgと呼吸性アシドーシス(体に二酸化炭素が溜まりすぎて体が酸性の状態)がありました。しかし、前回のケースで採血キットが後2回分しかなく、診療所に置いてあった簡易CO2モニターをつけて、最低限の検査で状態を把握することにしました。※個人情報の観点から症例の詳細は改良してあります。

一難去ってまた一難の状況ですが、なんとか蘇生はすることができました。しかし、また天候不良によって搬送することができず、"島医者は甘くない"と島にいわれているような感覚になりました。このあとさらなる予想外のできごとが起きます。次回はそんな困難の中、無事に搬送ができたかについて書いていきたいと思います。

column -離島と都市部の救急搬送-

前回まで2回に渡り、急変した患者を天候不良で搬送できない事例についてお話しました。今回はcolumnとして離島と都市部での救急搬送の違いについて話をしたいと思います。

最善ではなく、乗り越える医療

離島はとにかく資源がありません。前回の事例のように検査キットも限られていて、酸素もボンベで管理しているため無限には使えません。そして、何よりも"すぐに病院へ運ぶことができない"という事態が発生します。最善の管理ではなく、患者がなんとか乗り越えられるように、資源や搬送経路を考えます。ここが離島におけるマネージメントの難しさだと思います。しかし、離島では、対応できなければすぐに搬送するため、逆に流れとしてはシンプルなのかもしれません。そして、大概の相談をした病院が受け入れをしてくれます。資源が限られているので診療所内でできることが限られています。それを基準として、超えたら搬送となるというわけです。ただ、医師1人、看護師1人というマンパワー不足を考えると、そこも含めて搬送の基準を考えなければなりません。前回の事例のように2日間寝ずに患者を管理し、翌日が診療の場合、さすがに疲労の蓄積があります。しかし、すぐに代わりの医師が用意できるわけではありません。その疲れは間接的に患者にも影響する可能性があるため、そこまで考えてマネージメントが必要なのです。

搬送中の南大東空港にて 晴天

マンパワーで乗り越えることができる

都市部でも診療所でできることは限られており、必要があれば病院へ搬送することがあります。搬送する基準はあまり変わらないかもしれませんが、準緊急(今すぐではないが、近いうちに入院が必要な時)であれば、数日間在宅医療で見ることもできます。また、都市部では搬送したい病院が受け入れできなくても、輪番制で受ける病院があるため、救急隊が遠方でも病院を見つけてくださります。これはマンパワー、医療財源があるからこそ成り立っていると思います。しかし、都市部でたくさん病院がある中でも、新型コロナウイルスが流行したときに受け入れ先が見つからない事態が顕著になりました。なぜなのでしょうか。専門家が不在である、病床が満床である、発熱患者を分離して見る場所がないなど様々な理由があると思います。さらに、この原因は医療者の心理的な部分にもあるかもしれません。都市部では病院の数は圧倒的に多く、自分が診なくてもなんとかなってしまうところがあります。自分のいる病院の体制、設備を考えると他の病院で診てもらった方が良いと考えてしまうのです。実際、都市部にきて1年になりますが、自分もそのような考えになっていると感じることがあります。マンパワーで乗り切れる良い面もたくさんありますが、医療者への"誰かが診てくれるだろう"という心理的面に影響はあると思います。

このように離島と都市部では悩む内容がまったく違います。その地域医療を担う家庭医にとって資源、マンパワーを考えながら、マネージメントする能力は必要とされるスキルなのだと思います。

〜第1章〜 2020.5 -離島の洗礼- その2

前回では、意識障害とショック状態の患者を搬送しようと試みるも、南大東島周囲の濃霧により自衛隊が来ることが出来ず、絶望の淵に立たされていました。今回は、その後の話をしていきたいと思います。※個人情報保護の観点から症例の詳細は改変してあります。

絶望の淵に立たされ後、患者をただ見守り、家族を励まし、時が過ぎていきました。夕方、自衛隊から連絡が入りました。『南大東まで向かってはみるが、島周囲の天候によっては引き返す可能性がある』と連絡を受けました。今まで飛ぶことすらできない状態だったため、わずかな希望に期待し、救急車で空港まで向かい待つこととしました。

自衛隊の飛行機が南大東島上空まで来てくれましたが、濃い霧が中々晴れないため、姿は見えず、エンジンの音が鳴り響いていました。その後、何度か着陸を試みましたが、視界不良でできませんでした。上空を1時間旋回し続けてたあと、上空より連絡が来ました。

『霧が中々晴れないため、最後1回だけ、着陸を試みて、できなければ引き返します。』

さらに、この日を逃すと数日間天候が悪く、しばらく、南大東まで来ることすらできないような最悪の状況でした。すぐそこまで搬送の飛行機が来ているにもかかわらず、状態が悪化する患者に何もできない状況に絶望しながらも、看護師、家族と一緒に救急車の中で祈りました。そんな中、濃い霧で視界がほとんど見えない雲の合間から飛行機が現れ、自衛隊の勇敢な行動に心の底から感動しました。そして、無事に着陸。その場では隠していましたが、目頭が熱くなっていました。搬送のために来てくれた医師に引き継ぎ、濃い霧に消えていく機体を見送り、無事に患者を搬送することができました。

濃い霧の中から現れた自衛隊航空機

診療所へ救急車で戻り、看護師と話していると『先生、泣いてたね』と泣いていたことがバレていました。患者はICUへ入院となり、緊急透析を行い、経過は良好で、元気な姿で南大東に帰ってきてくれました。

このように、赴任後1ヶ月で離島の洗礼を受けました。離島では天候不良のため搬送できず、数日間島内で対応しなければならないことが突発的に発生します。ただ、離島にある限られた資源では、完璧な医療ができるわけではありません。資源を考えながら検査、治療を行いますが、それが患者にとって危害を与えてはいけません。限られた環境の中で最善な対応ができるようにマネージメントする力が島医者には必要なのだと感じました。

※個人情報保護の観点から症例の詳細は改変してあります。

次回はcolumnとして、現在、東京の都市部家庭医をやっている中、離島との環境における違いについて救急搬送という視点で話していきたいと思います。