島医者の離島日記 〜"あの先生"であったこと〜

島医者の経験をもとに家庭医療学を広めたい

〜第2章〜 島医者はDr.コトーなようで、Dr.コトーではない?! その5

またまた、期間が開いてしまい久しぶりの投稿です。私の近況も報告すると、2025年度は新たな分野への学びをしていました。

"家族療法"という家族を理解するための心理療法について、団先生、早樫先生、千葉先生、坂口先生のもと、京都で4回にわたって修行をしてきました。

特に、2026年2月27-3月1日で行った「対人援助職のための自己覚知 -原家族と向き合う-」では、自分の家族の提示をし、自分自身と家族を見つめると機会となりました。参加者と共に自分の家族、参加者の家族についてを理解する中で様々な気づきがあり、今後の診療や私生活にも活かせていけそうです。

この学びは家庭医として実践していく中で非常に重要なものとなりました。これについても今後ブログにまとめていきたいと思っています。

 

医師確保システムのリアル

離島医療を語るとき、「どうやって医師を確保するのか?」は最大の関心事です。ドラマ『Dr.コトー診療所』では、志木那島の役場職員・星野課長が奔走し、五島医師を情熱で呼び寄せるという展開でした。

しかし、現実の沖縄県は、情熱だけに頼らず、制度としてのセーフティネットをしっかり整えています。私自身もこの制度の中で南大東島に赴任しました。ここでは、その実際の仕組みをご紹介します。

沖縄県は1960年代から県立の離島診療所を整備し、現在は16の施設を運営しています。これらはすべて県立病院の一部門として位置づけられ、医師の人事や医薬品の供給、医療情報などが一体的に管理されています。

このように、「個人の奮闘」ではなく「組織の連携」によって、医療体制が支えられています。

久しぶりに離島フェスタで食べた大東そばと大東寿司

 

ローテーション方式で「無医島ゼロ」

医師は主に5〜8年目の若手を中心に、1〜2年単位でのローテーションで離島に派遣されます。私もこの制度のもとで南大東島に赴任しました。

この仕組みには、以下の3つの重要なポイントがあります。

1.    育成と供給の両立

若手医師が離島経験を通して総合力を高める一方、人員を定期的に循環させて継続的な医療を実現します。

2.    明確なバックアップ体制

県立中部病院などの基幹病院が「後方支援病院」として機能し、24時間ホットラインやドクターヘリによる緊急搬送が可能です。

3.    交代スケジュールの可視化

次の医師が決まるまで、現任者は離任できない仕組みにより、「無医期間」を生まないようにしています。

 

自治医科大・地域枠と奨学金制度

もう一つの柱が、奨学金義務年制度です。自治医科大学や地域枠で医学部に進学した医学生には、一定期間、離島やへき地での勤務が義務付けられます。私の同期にも自治医大卒は2名おり、一緒に離島時代を乗り越えました。

 

Dr.コトーとの対比:制度×情熱の両輪

ここで、ドラマ『Dr.コトー診療所』と現実の沖縄県のシステムを比較してみましょう(表1)

観点

ドラマ(志木那島)

沖縄県の実際

募集方法

星野課長の人脈と熱意

県立システム+義務年制度

任期

無期限(定住前提)

1〜2年ローテーション

バックアップ

ほぼゼロ

基幹病院・ヘリ・遠隔読影

表1

情熱だけでは、体制としての継続性は確保できません。制度と情熱の両輪が揃って初めて、離島医療は持続可能なものになるのです。

私は『Dr.コトー診療所』(2022年公開)で東京の大病院の御曹司として志木那島へ研修にやってきた織田先生のこのセリフがとても印象的です。
「この島の医療は、コトー先生っていうたった一人の超人の、自己犠牲だけで成り立ってる。それって、持続可能なことなんですか?」
このセリフは今の離島医療の問題を表しており、今後、持続可能な医療体制を考えていかなければならないことを再認識させられました。
 

「仕組み」が若手を挑戦させる

私が医師5年目で離島に行けたのも、この制度が“挑戦しても大丈夫”という安全網を張ってくれていたからです。さらに、離島を経験したOB・OGの先生達がグループを作り支援をしてくれる制度がありました。だからこそ、「まずやってみよう」と思えました。

もし制度がなければ、経験豊富な医師しか離島医療に挑戦できず、世代交代は難しくなります。離島医療の未来にとって、この“挑戦を許容する仕組み”こそ、最大の資産であると私は感じています。

 

次回は「設備ギャップ──“手術室”があるドラマと酸素ボンベだけの現実」。

ドラマの華やかな手術シーンと、私が実際に使った瀉血や簡易血ガスモニターのリアルを比較し、限られた資源のなかでどう最適解を出すかを探ります。

 

 

〜第2章〜 島医者はDr.コトーなようで、Dr.コトーではない?! その4

さて、今回は私が離島で直面した「病院と診療所の違い」、そして「不確実性」と「複雑性」などという観点から、離島医療で本当に必要なスキルとは何かについて書いていきたいと思います。 

離島診療所で感じた新しい感覚

以前も記事(〜第1章〜 2020.4 -初めての急患搬送- その1 - 島医者の離島日記 〜"あの先生"であったこと〜)にも書きましたが、高齢女性が頭痛を訴えて来院した時のことです。本人も自分で診療所を受診し、全身状態も悪いわけではありませんでした。

その方は血をサラサラにする薬(抗凝固薬)を内服しており、そのとき私の頭によぎったのは脳出血の可能性でした。しかし、島にはCTやMRIといった検査機器がなく、血液検査も限られています。

病院であれば、画像検査や複数の専門医と相談しながら診断を進めることができますが、島では私ひとりで判断を下さなければなりません。もし判断を誤れば、患者さんの命にかかわるかもしれません。

私は迷った末に、「今ここで分からないままにしておくより、搬送して確実な検査と治療を受けてもらうべきだ」と判断し、本島の病院への搬送を手配しました。結果として、その方は硬膜下血腫と診断され、早期に手術を受けることができました。

このとき、私は「病院と診療所では、求められる判断力の質が違う」ということを強く実感しました。

病院時代とのギャップ

病院では「わからなければ調べる」という前提で診療が進みますが、離島では「わからないまま、どう動くかを決める」という状況が日常です。そしてその決断が、患者さんの命や生活に直結するのです。

また、離島では病気そのものだけでなく、患者さんの暮らしや環境まで含めて対応する必要があります。たとえば、高齢の一人暮らしの方が発熱したとき、島医者としてはただ「何の感染症か?」を考えるだけでは足りません。

その人の生活背景にある「孤立」や「介護の不安」といった問題にも向き合わなければ、本当の意味での医療にはなりません。このような経験を重ねる中で、私は次第にあることに気づきました。離島の医療で本当に求められるのは、「どの診療科ができるか」ではなく、「不確実性や複雑性をどう受け止め、それでも行動する力」なのだと。

4月から高校進学のため那覇に移住する子ども達を送るためのイベント

技術だけでは解決しない世界

ドラマの中のコトー先生は、圧倒的な技術と経験をもって、次々と患者を救っていきます。それはまさに理想的な“スーパードクター”の姿です。一方で、私が現実の離島医療で体験したのは、技術だけでは対処できない「曖昧さ」と「迷い」の世界でした。

たとえキャリア年数が半分であっても、不確実な現実に向き合いながら、一人ひとりの患者さんと誠実に関わり、時には「診断をつけないまま、でも最善を尽くす」ことも含めて行動しなければならない時があります。これこそが、今の離島医療に必要なスキルなのだと感じました。そしてそれは、手術の技術や知識の“深さ”だけでなく、「幅の広さ」や「判断の速さ」、さらには「人としてのまなざし」までも含めた、総合的な力が求められるということでもあります。

 

次回は、 ②離島医の医師確保体制 についてお話しします。情熱だけで医師を集めていた志木那島とは違い、沖縄県ではどのような仕組みで無医島を防いでいるのでしょうか。ローテーション制度や遠隔支援の取り組みについて、私自身の経験も交えながらお伝えします。

 

〜第2章〜 島医者はDr.コトーなようで、Dr.コトーではない?! その3

今回は、島医者はDr.コトーなようで、Dr.コトーではない?!①赴任する時の医師学年と専門スキルについての続きを話します。

 

前回はDr.コトーの外科医としての心情やスキルの推測についてお話ししました。今回は私自身のことについてお話しをします。

沖縄本島での研修

私は沖縄県立中部病院(沖縄本島中部地区の中核病院)という研修病院で初期研修をスタートしました。この病院は県立ということもあり、沖縄県の離島に赴任する医師を育てることが病院の一つの目標にもなっています。

私は診療科で言えば、総合診療科に位置します。しかし、初期研修医の時期は、将来何科に進むかは関係なく、Dr.コトーとも一緒で全ての診療科をローテーションしていきます。その後の後期研修からが、それぞれの将来の診療科によって個別化されていきます。

私はDr.コトーとは違って、医師5年目(Dr.コトーは9-10年目)で離島に行くことが決まっていました。そのため、初期研修医の時から各科ローテーション中に、離島に行ったらどんなことを意識しなければならないか、医師が1人になったらどのようなことまでならできるのかということを常に意識して研修をしていました。

そのため、初期研修医の時が終わった後も、内科、外科、整形、皮膚科、小児科、産婦人科、救急科と万遍なく様々な診療科で研修をしました。また、南大東島に赴任する半年前には沖縄県立八重山病院(石垣島中核病院)で研修を行いました。ここでは、中部病院とは違い、医師の数が少ないため、1人で担う役割が広い印象がありました。同じ病院であっても地域が変わり、住民から求められることが変わるだけで自分の役割が変わることを実感しました。また、八重山病院では設備が限られているため、病院ではあるけども、限界を判断し、適切に対応できる病院へ搬送もしなければなりません。全てのことを自分だけで対応することが正解ではないということも学びました。

2年ぶりに行って"初めて"体験できた豊年祭

南大東島への赴任と直面した現実

これらの研修を経て私は医師5年目で南大東島に赴任をしました。

しかし、赴任して数ヶ月が経つと、私は病院での医療とはまったく異なる現実に直面していることに気づきました。しかし、その違いが何なのか、当初ははっきりとは分かりませんでした。

確かに、すべての診療科の対応をするのは容易なことではなく、完璧ではないにしても、自分なりに努力をしてきたつもりでした。それでもなお、離島医療には「それだけでは対応しきれない何か」があったのです。

その「何か」とは、一言で言えば 求められる役割の違い、「不確実性」「複雑性」 などではないかと思っています。これまでの病院での研修では、診断や治療のプロセスがある程度システム化され、専門分化された環境で働いていました。しかし、離島では、患者が最初に訪れるのは診療所であり、どのような訴えであっても、まずは自分が診断と対応の方針を決めることになります。その中には、診断がすぐにつかないケースもあれば、医療だけでは解決できない生活上の問題が絡むケースもありました。

「Dr.コトー診療所」の世界では、離島の医師はすべての診療科をこなし、時には手術も行い、患者の命を救う姿が描かれています。確かに、私も多くの診療科を研修し、離島での診療に備えていました。しかし、実際に離島に赴任してみると、ただ「すべての診療科を診る」ことが求められるのではなく、それ以上に大切なスキルが必要であることに気づいたのです。

つまり、離島医療では「疾患を診る」だけではなく、「患者全体を診る」ことが求められ、そこには 病院とは異なるスキルや判断力が必要 だったのです。

次回は、私が離島で直面した「病院と診療所の違い」、そして「不確実性」と「複雑性」などという観点から、離島医療で本当に必要なスキルとは何か についてお話ししていきたいと思います。

 

 

 

〜第2章〜 島医者はDr.コトーなようで、Dr.コトーではない?! その2

みなさま、お久しぶりです。なかなか月1回のBlog更新ペースを守れないでおりますが、諦めずに続けることを目標に、これからも頑張っていきます。笑

さて、前回から"第2章"が始まり、Dr.コトーと私が赴任していた南大東島のセッティングを比較したお話をしました。ここで、そもそも、なぜ『島医者はDr.コトーなようで、Dr.コトーではない?!』を書こうと思ったかについて書いていなかったので、そこから始めていきたいと思います。

 

私が離島に行っていたこと(行く予定のこと)を話すと、多くの人に『あ、Dr.コトーみたいな感じ?』と言われることがよくありますが、すぐに『そうそう!』と心から答えるのが難しいときがあります。

私自身も、ドラマの時代から『Dr.コトー診療所』を見ていて、好きな番組の一つでした。しかし、実際に自分が赴任した後に、あの描写が現実と一致しているかと言われると、すべてを”YES”とは言えないことが多いです。(最近では、説明が面倒なので『そんな感じです!』と言うことが増えています。笑)

ただ、この感覚をうまく言葉にできずにいましたが、なぜ心から”YES”と言えないのかを考えてみると、離島医療を考える上でさまざまな視点が浮かび上がってくるのではないかと思い、このテーマを扱うことにしました。

 

前回、Dr.コトーのセッティングと、南大東島のセッティングを比べた時に、以下の3つの要素を抽出しました。

①赴任する時の医師学年と専門スキル

②離島医の医師確保体制

③施設設備

今回は①医師の学年と専門スキルについてを話していきたいと思います。

まずはDr.コトーについて考えてみます。Dr.コトーは医師9-10年目の外科医であり、初期研修の2年間しか他の診療科(外科以外)に触れることがなかったと思います。僕の感覚からすると5年以上触れることがない診療科に関してはほとんど知識は忘れてしまうことが多く、医師側もその分野に関して避けて通ることが多くなります。(もちろん例外で、優秀だったり、勤勉な医師もいるかと思います。)

さらに、大学病院で働いていた背景を考えると、なおさら他の診療科の診察ができなくなっていたのではと推測します。これは市中病院(特に田舎)と大学病院のマンパワーや役割の違いも影響していると考えます。

大学病院では最先端の治療を行うため、専門分野が狭く、深くなる傾向があり、各診療科の役割分担が厳密にされています。逆にいうと、それにより医療が分断することがあり、例えば、1人の患者が同じ大学病院の内科に通っているにも関わらず、循環器内科、糖尿病内科、腎臓内科と複数科に通院していることも少なくありません。

一方、市中病院(特に田舎)は人手不足や、他の医療機関では診てもらえない患者の受け皿になることが多く、ある診療科の専門医でも多岐に渡った(他科の)知識を持っていることが多いです。今ままで私が所属していた施設(市中病院)では、外科の中でも、心臓血管外科医が虫垂炎(消化器外科)の手術をするなど、いわゆるジェネラル・サージェリー(幅広い対応のできる外科医)の先生が多いという印象でした。

宮古島の海 

このことから、Dr.コトーは、内科や小児科などの外科以外の分野はもちろん、自分の専門外の外科分野について診療する際にも、大きな不安を抱えていたのではないでしょうか。

しかし、諸事情があり、離島にたどり着いたDr.コトーは必死に生きていく道を探していたのだと思います。その中で、島民が誰も寄り付かない現状を打破するために、自分が最も自信を持ってできる"手術"が必要な患者が目の前に現れたとき、何としてでもこのチャンスを逃してはならないという覚悟があったはずです。麻酔科医もいない、看護師が1人しかいない状況での手術は、どんな名医であっても、かなりの不安を抱き、ストレスがかかっていたと思いますが、Dr.コトーも自分の人生を賭けた必死さが行動へとつながったのだと思います。

つまり、どんなに大きくて、最先端の病院(大学病院など)で働いていたとしても、離島で起こるどんな問題にも対応できるスキルを持っているかと言われれば、そうではありません。離島では、医師の経歴によって、すぐに役にたつスキルと、それだけでは足りないスキルが存在するのです。

 

次回は、私が赴任した時点での経験年数と専門スキルについての話をしていきます。

それではお楽しみに。

 

 

 

〜第2章〜 島医者はDr.コトーなようで、Dr.コトーではない?! その1

みなさま、こんにちは。

現在、妻のおじぃ、おばぁが住む宮古島に向かう飛行機の中で、三線ソングを聴きながら沖縄での出来事を思い出しております。

離島から離れて約2年が過ぎ、島医者時代の記憶がいい意味でも、悪い意味でも薄れつつあります。しかし、印象深かった経験は今でも鮮明に覚えており、今、自分が実践している家庭医療との親和性があったということを実感しております。

ブログを始めた当初は、時系列に経験から感じたこと、考えたことを書いていく予定でした。しかし、記憶は薄れていく中で全てをブログに書くことはできないなと感じております。

そこで、今回からは"第2章"として、離島で経験したことを参考にしながら、島医者とは何か、家庭医療とはどういうものかを皆様に説明していけたらと思っています。

前回はcolumnとして、"離島でのおくりびと"をお話ししました。

今回から数回に渡り、島医者はDr.コトーなようで、Dr.コトーではない?!という話をしていきたいと思います。

 

さて、まずはDr.コトーのセッティングから考えていきます。

Dr.コトーはもともと東京の大学病院で外科医をしていた五島健助(33歳 おそらく医師9-10年目)が志木那島(架空の島)に漁船で向かうところから始まります。志木那島は八重山諸島の島で、沖縄本島から船で6時間かかり、人口は1700名程度(実際のモデルの下甑島や撮影舞台の与那国島)のようです。

診療所は医師1人、看護師1人(星野彩佳 島民 役場民生課長の娘)、事務1人(和田一範 島民 役場職員)の3人体制となっています。

診療所の設備は診察室、處置室という手術室、病室に2つのベッドがあります。

Dr.コトーが赴任直後は、今までの赴任していた医師の経験から島民たちは診療所に寄りつかず、とても苦労します。その後、虫垂炎、腹部大動脈瘤などのダイナミックな手術をすることで島民の信頼を得ていくというストーリーとなっています。

https://coto.welcome-yonaguni.jp/ より



ここで、僕が赴任していた南大東島のセッティングを振り返ります。

私は沖縄本島で初期研修を終え、後期研修中(総合診療/家庭医療研修中)の医師5年目で南大東島に赴任しました。専門医の資格はまだありませんが、離島に行くための研修(総合診療/家庭医療研修中)として内科、外科、小児科、整形外科、産婦人科、皮膚科、救急科など様々な科をまるまる4年間(初期2年+後期2年)研修してから赴任します。

沖縄県の離島診療所は県立の診療所が多く、16箇所の県立離島診療所があります。そこに研修中の医師5-8年目の医師が常にローテーションしている体制で、沖縄県の県立離島診療所は基本的に医師が常駐しています。そのためか、各離島では医師が常にいることに感謝され、島民からの受け入れもとても良好です。

赴任する医師は沖縄県出身(自治医科大出身)で義務を果たす必要がある者、私のように沖縄とは無関係な東京出身だけど離島に興味があって赴任する者、と様々な理由で赴任しています。

南大東島は1300人程の人口で、沖縄本島からは船で15時間、飛行機で1時間程度。

診療所も医師1人、看護師1人(附属県立職員 島民ではないことが多い)、事務1人(現在は島民)体制です。

診療所の設備は診察室、処置をするストレッチャー、経過観察室にベッドが1つあります。

 

Drコトーと比べると、

①赴任する時の医師学年と専門スキル

②離島の医師確保体制

③施設設備

の点で異なっていることがわかります。

 

以上、今回はDr.コトーと南大東島での島医者を比較するために、それぞれのセッティングに関して整理してみました。

次回からは、①赴任する時の医師学年と専門スキル②離島の医師確保体制③施設設備に沿って具体的に比較をして、「島医者はDr.コトーなようで、Dr.コトーではない」ということを話していきたいと思います。

なるべく1-2ヶ月に1回で更新を目標にしていこうと思っているので、引き続きblogを読んでもらえると嬉しいです!

 

column -離島における"おくりびと"-

みなさま、お久しぶりです。2023年度は診療や教育指導、各種連携などが忙しくて、なかなかブログを書く時間がありませんでした。

2024年度の始まりも関連病院の支援がありバタバタしておりましたが、GWに入り落ち着いたため、ぼちぼちブログを再開していこうと思います!

思い起こせば、初投稿の記事

 

remoteisland-urban-famdr.hatenablog.com

『"家庭医"として果たしてきた役割や意義を知ってもらえると嬉しい』

と書いていましたが、実はなかなか言語化することができず、悶々と過ごしていました。しかし、この1年間、CFMD(Centre for Family Medicine Development)東京に指導医として所属し、日本家庭医療のパイオニアの背中を見ながら試行錯誤する中で、だんだん言語化することができるようになってきたと感じています。

そこで、離島医療で経験したこと、感じたことを家庭医療の内容と合わせて説明していければと考えています。

これを読んでいる方の中には『家庭医療って何?』という方もいらっしゃると思いますので是非続けて読んでいただけると嬉しいです。

 

さて、前回は赴任後初めてのお看取りについて話をしました。(約1年前のため見返していただけると幸いですm(_ _)m)

今回は、お看取り後、南大東島や他の離島ではどのような流れで進んでいくかについてcolumnという形でお話ししていきたいと思います。

実は、南大東島で初めてのお看取りをした後、恥ずかしながらどのように対応するかわかりませんでした。

病院にいた頃はお看取りをして、看護師さんや葬儀屋さんに任せきりでした。どうケアをするか、どのような流れで自宅へ帰るか、これらをなんとなくしか把握していなかったということに気づきました。

南大東でお看取りの後は、家族と有志の方(社協、保健センター、役場職員)が"おくりびと"としてケアをしてくれます。というより、全部やってくださります。

ご遺体が一番いい表情、いい格好でいられるように死後硬直が始まる前に体勢を整え、旅立つ際の着物に着替えます。

そして、何より大切なことが、南の孤島にある離島のため暑さで腐敗が進まないように体を大量の氷で冷やします。

南大東島には火葬場があり、島内でご遺体を火葬し、島内で供養することができます。

僕が島を出た後、火葬場が改築され、今ではとても立派なものができたと聞いています。

離島によっては火葬場がない島もあり、その場合はフェリーや飛行機で本島まで

送らなければなりません。

僕がお看取りしたおばぁも有志の方々の手により、穏やかな姿、旅立ちの格好となり、最後のお別れをすることができました。

離島によってはご遺体の供養の仕方が伝統的な島もあります。

例えば、粟国島では"洗骨"という文化があります。

「あの世」と呼ばれる場所で風葬した後に、再度、棺桶ごと風化したご遺体を取り出し、遺骨を一つ一つ洗い流していくという文化があります。

このプロセスは島民にとってもさまざまな意味で、辛く、悲しいことでもあるようですが、それをすることで命の大切さや感謝の気持ちを一段と感じることができるのかもしれません。

港からの夜空と星

以上、離島での"おくりびと"についてを説明しました。

このように離島では地域の人が協力しながら、その離島に備わる範囲で、文化を大切にして魂の供養をしています。

東京に来てからも訪問診療の患者さんの時間外でのお看取りを経験します。私の所属する施設では夜のお看取りの場合、医師1人で対応をします。東京という都会にはいますが、夜中の往診は孤独であり、離島を思い出すような経験でもあります。

東京には離島ほどの文化はありませんが、1人の人生の最後を見送るときは旅立ちまでのプロセスも考えながら、自分もおくりびとの1人としての役目を意識していきたいと思います。

次回は、本格的な再開の第一弾として"島医者はDr.コトーなようで、Dr.コトーではない?!"という話題で島医者、家庭医についてを話していきたいと思います。お楽しみに。

 

 

 

 

 

 

〜第1章〜 2020.6 -最期まで南大東に居たい- その2

前回は、南大東島に赴任後、初めてのお看取りをすることになったおばぁについて話をしました。今回はその続編です。※個人情報保護の観点から症例の詳細は改変してあります。

長男と面会を果たせた翌日。外来診療が終わった後の夕方、往診を行いました。おばぁは水分をほとんど取れていませんでしたが、前日より少し楽になっていそうでした。抗生剤を投与し、連日で往診を行って、肺炎の治療が落ち着いたら、おばぁの自宅へ移動する予定としました。私も離島で初めての終末期の患者を抱え、心配で胸がいっぱいでしたが、その日は心を落ち着かせて床に就きました。

午前4時、医師携帯が鳴りました。

「先生、お母さんが呼吸してないみたい。すぐにきて下さい。。。」

パニック気味になっている次男からの電話を受け、看護師に連絡をし、次男宅へ向かいました。自宅へ到着すると、次男はおばぁの横で佇んでおり、診察をするとおばぁは脈も呼吸もありませんでした。

答えのない選択

私はここで葛藤と闘いました。このまま次男宅でお看取りをすることがいいのか、それとも、今からでも移動して長男と共におばぁ本人の自宅でお看取りをすることがいいのか。正解がわかりませんでした。そんなことを考えていると、午前4時にも関わらず、島中から親戚が集まってきて、患者を取り囲む人数が20-30人に達していました。しかし、ここで死亡確認をしてしまったら、おばぁや家族の願いを叶えられないと思い、次男へ提案をしました。

菊池「まだ最期の診察をしていないのでお母さんの自宅に移動して診察をしませんか?」

次男「そうだね、そうしよう。みんな手伝って!・・・」

集まっている親戚達に事情を説明し、男性陣におばぁを布団ごと車に運んでもらい、車で15分くらい離れたおばぁの自宅へ向かいました。

その自宅では長男が待っており、おばぁが長年愛用していたベッドに横になってもらいました。そして、長男にはベッドの側の"いつもの場所"に座ってもらい、最期の診察を行いました。対光反射/心音/呼吸を認めず、5時38分に死亡を確認しました。

最期の診察を終え、戻ってきた診療所

家族と親戚が泣きながらおばぁを囲んでいる中、次男は端で茫然と立ち尽くしていました。私は次男に掛ける言葉が見つからず、隣で一緒におばぁをみつめていました。その後、診療所に戻り、死亡診断書を作成して自宅へ届けました。後日、お葬式に伺った際に次男より「今回は本当にありがとうございました。母も自分の家でみんなに囲まれて最期を迎えられてよかったと思います。」とお言葉を頂きました。

考え抜いて出した結論

全ての経験が初めてで、医師1人看護師1人の訪問診療、島の有志の方との連携をして行う終末期医療、亡くなっている状態の患者を移動させていいのか、さまざまなことでとても悩みました。しかし、以前から患者、家族の想いを聞いており、何がなんでもそれを叶えてあげたいという気持ちに従い、今回のお看取りをしました。この行動が正しいのか、間違っていたのかはわかりません。ただ、その人の人生を考え、家族の気持ちを考え、出した結論は間違ってはいなかったのかと思います。※個人情報保護の観点から症例の詳細は改変してあります。

今回は2回に渡り、島に赴任して初めての終末期医療のお話をしました。島での終末期医療の話をしたので、次回は離島で患者が亡くなった後、どのような経過を辿っていくかについて話していきたいと思います。